2014年2月27日木曜日
名残の栗
犬が踏まないように栗のイガを集めていて、ドウダンツツジの枝に、栗が引っ掛かっているのを見つけました。
つやつやと今でも茹でれば食べられそうな姿です。
昨秋、我が家で一番遅い栗の木の実が落ちるころ、いちじくを取ろうとして梯子ごと転落した私は入院し、夫は家のことをすべてしなくてはならず、栗を拾う余裕など、どこにもありませんでした。
そのため、栗はまるまる落ちっぱなしでした。
「絶好のチャンスと、ハクビシンやイノシシは来たのかしら?」
見渡すと、きれいに向いた皮も、そこここに散らばっていました。彼らはきっと堪能したことでしょう。
姿のまま残っていた栗も、よく見ると虫に食べられています。
この秋には、動物たちと競争しながら、しっかりと栗拾いをしたいものです。
2014年2月26日水曜日
紅梅
作業棟の建設が進むにつれ、庭の動線が変わってきます。
これまでも、庭木の移動はしょっちゅうでしたが、昨秋は、中庭に植えていた紅梅を移動しました。この紅梅は、
「もう、季節が過ぎて売れないから」
と、親切な植木屋さんにいただいた木で、小さいながら毎年美しい花を咲かせ、たくさんの実を生らしてくれていました。
移動するとき、夫は細心の注意を払ってユンボで掘り起こし、その日のうちに植え直してくれたのですが、季節が悪かったのか、葉が全部落ちて枯れ木のようになり、秋のうちに、もう一度葉が出てくることはありませんでした。
残念、でもあれで精いっぱいだったので仕方ありません。十中八九枯れてしまったものと思っていました。
ところが今朝、焚き火をしていて、紅梅も枯れているならこのさい燃やしてしまおうと、木の方に行くと、遠くからでも、先端の枝が赤くなっているのが見えました。
「えっ、生き返った?」
信じられない気持で近づくと、蕾がついていました。
枯れてしまった枝もありましたが、生きている枝もたくさんあります。
この紅梅は遅咲きではなかったように記憶しています。
もうちよさんの梅は咲きはじめたというのに、蕾はまだまだ固そうです。でも咲いてくれるだけで嬉しいし、こうして自分が歩いて梅を見に行けるるだけで幸せです。
これまでも、庭木の移動はしょっちゅうでしたが、昨秋は、中庭に植えていた紅梅を移動しました。この紅梅は、
「もう、季節が過ぎて売れないから」
と、親切な植木屋さんにいただいた木で、小さいながら毎年美しい花を咲かせ、たくさんの実を生らしてくれていました。
移動するとき、夫は細心の注意を払ってユンボで掘り起こし、その日のうちに植え直してくれたのですが、季節が悪かったのか、葉が全部落ちて枯れ木のようになり、秋のうちに、もう一度葉が出てくることはありませんでした。
残念、でもあれで精いっぱいだったので仕方ありません。十中八九枯れてしまったものと思っていました。
ところが今朝、焚き火をしていて、紅梅も枯れているならこのさい燃やしてしまおうと、木の方に行くと、遠くからでも、先端の枝が赤くなっているのが見えました。
「えっ、生き返った?」
信じられない気持で近づくと、蕾がついていました。
枯れてしまった枝もありましたが、生きている枝もたくさんあります。
この紅梅は遅咲きではなかったように記憶しています。
もうちよさんの梅は咲きはじめたというのに、蕾はまだまだ固そうです。でも咲いてくれるだけで嬉しいし、こうして自分が歩いて梅を見に行けるるだけで幸せです。
2014年2月24日月曜日
クルミ
クルミを手に入れました。アメリカ大陸のクルミです。
それにしても、拾ったものたちをどうやって整理したらよいのか、悩んでしまいます。私の場合、標本採集ではなく、好きなものを見る、飾るなので、拾った日や場所を書いて、引き出しにしまうことはしていません。
ところが石も種も、拾ったときの仲間を一緒にとっておくのか、あるいは、種類ごとにわけるのか、そこから悩みがはじまります。
もっとも、私が見るだけですから、どっちでもいいと言えば、どっちでもいいのですが。と、のんきなことを言っているうちに、種や石は減らずに増える一方です。
クルミの整理も億劫だなぁと思いながら、種を入れてあるビンを見たら、これは奇跡(?)か、クルミはちゃんとクルミだけで集まっていました。
拾ったもの、植えるようにともらったもの、そして、中段左端のアメリカ産のクルミは買ったものです。いくつか、樹脂を塗ったようにてかてか光っているものがあるのは、どうしてなのかしら?
それにしても、1980年代にあたりまえに輸入されていて、よく食べていたのっぺりして細長い、どんぐりを大きくしたようなアメリカ産のクルミ、一つだけでもとっておけばよかったなぁ、最近は見ることがありません。
大半は、浜辺で拾ったクルミです。
2014年2月23日日曜日
小石のマトリョーシカ
八郷盆地を流れる恋瀬川が霞ヶ浦に流れ込んだところ、高浜で拾って来た石はマトリョーシカの銀紙で包んであったチョコレートと同じほどの大きさでした。
「包んでみようか?」
でも、ちょっと不定型の石はダメとわかりました。
顔のところだけはすっきり平らでなくてはなりません。
同じく、高浜で拾って来た石。
こちらは具合がいいようでした。
間違えて食べて、歯を欠かないようにご用心!
2014年2月22日土曜日
数万年前の八郷を知る
住んでいる町のジオツアーがあり、参加しました。
地質や地形を学んで、ここ八郷がどんなに豊かな土地であるかを知る集いといったところでしょうか。
八郷の山はなだらかですが、それは山を形成する岩の裂け目に水が入ってどんどん崩壊して、石の山や土の山になっているからということでした。
このあたりの山は急峻ではなくなだらか、20度、ところによっては8度のところもあります。奈良京都の山に似ていますし、倉敷の山にも似ています。
関東以北でよく使う言葉、「やと=谷津」はアイヌ語のヤチュから来ていること、筑波山はアイヌ語で「尖った山」ということを、初めて知りました。
筑波山だけが山頂のあたりが岩山で、尖って残っているのです。
まず訪れたのは、我が家の近くの瓦塚です。瓦を焼く窯は山の腹を掘ってつくってありますが、それも岩山だったら掘れなかった、土山だからつくれました。
八郷盆地はその昔、八郷湾だったり、八郷湖だったこともあるというのも、とても興味深い話でした。
だから、田んぼの下に岩がなくて、八郷盆地を流れる恋瀬川は細い川であるにもかかわらず、両側に広い田んぼをつくることができたのだそうです。
そして、もともと豊かな土地だったからこそ、今でも変わることなく里山の風景を残していられるのだそうです。
さて、ジオツアーの最後は、八郷盆地を流れる恋瀬川が霞ヶ浦に注ぐ地点でした。
そのあたり、普通の土に、川から流れてきた小石が混じっています。
海だったり、湾の入り口だったり、波打ち際だったり、葦が生えて陸地が広がったり、埋め建てられたりと、その土地もいろいろな歴史を経て今の姿になっていたのです。
自然の営みが、埋め立てや護岸工事などによって失われ、葦原がなくなってしまったところも見ました。右が霞ヶ浦です。
そのあたりで拾った石。
以前涸沼で拾った石もそうでしたが、赤褐色の石が多く見られます。
右は、
「おい、ここは海だったんだってよ」
と言って、夫が拾ってくれた石です。
地質や地形を学んで、ここ八郷がどんなに豊かな土地であるかを知る集いといったところでしょうか。
八郷の山はなだらかですが、それは山を形成する岩の裂け目に水が入ってどんどん崩壊して、石の山や土の山になっているからということでした。
このあたりの山は急峻ではなくなだらか、20度、ところによっては8度のところもあります。奈良京都の山に似ていますし、倉敷の山にも似ています。
関東以北でよく使う言葉、「やと=谷津」はアイヌ語のヤチュから来ていること、筑波山はアイヌ語で「尖った山」ということを、初めて知りました。
筑波山だけが山頂のあたりが岩山で、尖って残っているのです。
まず訪れたのは、我が家の近くの瓦塚です。瓦を焼く窯は山の腹を掘ってつくってありますが、それも岩山だったら掘れなかった、土山だからつくれました。
八郷盆地はその昔、八郷湾だったり、八郷湖だったこともあるというのも、とても興味深い話でした。
だから、田んぼの下に岩がなくて、八郷盆地を流れる恋瀬川は細い川であるにもかかわらず、両側に広い田んぼをつくることができたのだそうです。
そして、もともと豊かな土地だったからこそ、今でも変わることなく里山の風景を残していられるのだそうです。
さて、ジオツアーの最後は、八郷盆地を流れる恋瀬川が霞ヶ浦に注ぐ地点でした。
そのあたり、普通の土に、川から流れてきた小石が混じっています。
海だったり、湾の入り口だったり、波打ち際だったり、葦が生えて陸地が広がったり、埋め建てられたりと、その土地もいろいろな歴史を経て今の姿になっていたのです。
自然の営みが、埋め立てや護岸工事などによって失われ、葦原がなくなってしまったところも見ました。右が霞ヶ浦です。
そのあたりで拾った石。
以前涸沼で拾った石もそうでしたが、赤褐色の石が多く見られます。
右は、
「おい、ここは海だったんだってよ」
と言って、夫が拾ってくれた石です。
2014年2月21日金曜日
さようなら、桐の木
とうとうその日がやってきました。
我が家とひろいちさんの畑との境に植えてある桐の木は、倒れると我が家を直撃するため、
「近々切るから」
とひろいちさんに言われていたのですが、大雪で今日まで延び延びになっていたのです。
お風呂から見えるこの木には、特に愛着がありました。
犬の小春が不慮の事故で死んで以来、一年ぐらい立ち直れない日々が続きましたが、この枝の張り方の一部が小春の顔に見えて、朝お風呂に入るたびに、呼びかけていたのです。
五本の木のうち、この木は倒れても我が家を直撃しません。
でも、人を頼んで木を切ってもらうひろいちさんに、
「あの木だけは残して」
と言うすじではないのです。
ひろいちさんの桐の木から種が飛んで自生したと思われる、我が家の周りに生えていた桐の大木は、ここに来てから台風や落雷で三本も、あっけなく倒れました。ひろいちさんの桐の木も幹がうろになっていて、いつ倒れてもおかしくない状態です。
残す道はありませんでした。
どの木も、どちらかと言えば我が家の方に傾いているので、木を切る人は遠くからユンボ(パワーショベル)で引っ張りながら切ります。
たくさんのコゲラたちが毎日つついていた桐の木が、倒れた瞬間です。
ここに来て十三年、初めての桐の木のない姿です。
葉や枝が落ちてうっとうしいこともあったけれど、花が咲き、生活を彩ってくれて桐は薪にもならず、放置されて、ただ朽ちるのを待つばかりです。
空は広くなったのですが.....。
2014年2月19日水曜日
タイのどんぐり
やはりこばやしジャム店で買った、タイのどんぐりです。
世界にはブナ科の植物が700種類ほどあるそうですが、タイにもどんぐりが生る木が数十種類あります。
ただ、残念ながら私はタイに20年もかかわりながら、一度もこの目でタイのブナ科の木やどんぐりを、自然の中で目にしたことがありません。
タイの元同僚が日本に来たとき、栗に関心を示したことがありました。
タイでも、似たような実が生る木があるので、植えてみたいというので、何度も日本から苗を運び、ちょっと標高の高いところに植えてみたことがあります。
さて、何度試みたことか。
何度植えても、栗が育つことはありませんでした。
タイは平らで、標高が高いと言っても植えたのは中部でしたから、海から遠く離れていても、標高はたかだか200メートルくらいでした。
写真は、いずれも『FOREST TREES OF NORTHERN THAILAND』に載っていた、タイ北部のどんぐりの写真です。
こばやしジャム店で買ったどんぐりは、ちょっと角があって、心もち四角っぽいのですが、残念ながらどんなどんぐりか同定することはできませんでした。
タイの最高峰のドイ・インタノン(インタノン山、標高2565メートル)には、たぶん、いろんなブナ科の木が生えていると思います。
その、ドイ・インタノンに登ったことがあります。頂上付近まで車で登れるのです。
ところがそのときは、短い期間にたくさんの人を訪ねる旅で先を急いでいました。その結果によって、プロジェクト地を選ぶという、重要な旅でした。まず、 ドイ・インタノンの麓あたりに住む人を訪ねたのですが、引っ越ししていて引っ越し先も不明でした。しょっぱなから困ったなぁと思っていたら、同行のタイ人の同僚二人が、いきなり、
「ドイ・インタノンに登るから」
と言いました。
「どうして?」
「近くに来たから」
「近くだったらどうして登らなくちゃいけないの?まだ先を急いでいるし」
「ドイ・インタノンは、タイで一番高い山だから」
とうとう押し切られて登りました。
まあ、いつも「終わりよければすべてよし」と自分に言い聞かせていましたが、目いっぱい欲張った予定表をつくって、その通りできないとイライラするのは島国育ちの人間だけで、大陸育ちの彼らは優雅なものでした。
おかげで、熱帯のタイでシャクナゲを見るなど、珍しい経験をさせてもらったし、そんな機会でもなかったらドイ・インタノンに登ることもなかったので、まさに「終わりよければすべてよし」ですが、当時は全然そんな余裕がなく、ひたすら焦っていたのを思い出します。
2014年2月18日火曜日
サガリバナ
日本でも、奄美大島以南に生えるというサガリバナ(Barringtonia racemosa)は、 花が美しくて心惹かれますが、見たことがありません。ゴバンノアシ(Barringtonia asiatica)も同じサガリバナ科ですが、サガリバナの花も、やはり夜開くようです。
先日、こばやしジャム店にキバナキョウチクトウの種を注文したとき、サガリバナの実があったので、注文してみました。
当たり前ですが、ゴバンノアシにそっくりの実です。
といっても、ゴバンノアシと比べると、全然大きさが違います。
一度、どこかでサガリバナの花を見てみたいものです。
先日、こばやしジャム店にキバナキョウチクトウの種を注文したとき、サガリバナの実があったので、注文してみました。
当たり前ですが、ゴバンノアシにそっくりの実です。
といっても、ゴバンノアシと比べると、全然大きさが違います。
一度、どこかでサガリバナの花を見てみたいものです。
2014年2月17日月曜日
2014年2月16日日曜日
先はどんなに暗くても♪
東京、埼玉は雪がたくさん積もったようでしたが、太平洋に近いここ八郷は、あまり積らず、昨日の朝の雨で新しく積もった雪はほぼ溶け、その前から残っていた雪だけになりました。
道路わきの雪も溶け、アスファルトに堆積したわずかばかりの腐葉土を利用して秋に落ちたコナラが芽を出しています。
道路の端で、縁石のきわ。
どう考えても彼らの未来はありません。
コナラだけでなく、クヌギも。
先はどんなに暗くても、生き延びるところまで生きてみるつもりです。