2014年6月11日水曜日

昔の布

先日サナンさんが来たとき、ここの集落の名前の由来を聞かれました。
詳しくは知りませんが、瓦という字がついているのは、その昔、平安時代に石岡に国分寺国分尼寺を建てたとき、ここで瓦を焼いたからだと説明しました。
約、1200年前の話です。

タイのお寺にも焼きものの瓦が使われていますが、それは木の瓦の形がほとんどそのまま焼きものの瓦に置きかえられたものです。そう昔のことではないでしょう。
ところが、日本の瓦は帰化人の技術集団がもたらしたもの、それ以前は草屋根しかありませんでした。
何の証拠もありませんが、私は「瓦」という言葉自体、「韓(から)のもの」、「韓」、「かわら」となまったのではないかと考えています。

そんな話のついでに、見た方が早いと、瓦塚に行ってみました。
興味深く窯を見ているサナンさんに、
「落ちている瓦のかけらを、持って行ってもいいですよ」
と言ったのですが、彼は持って行きませんでした。私なら、1200年も前につくられたものと聞いたら、すぐ拾ってしまいます。私のような輩ばかりいると、何でもなくなってしまうと、ちょっと反省しながらも、とりわけ大きなかけらを拾ってきました。

 
表にはこんな模様がつけられていました。縄文土器と同じように、縄でつけたものでしょうか?


興味深いのは裏です。
布を当てて成型していますが、布目がはっきりと出ています。見事な平織りの布は、たぶんシナノキの繊維で織ったものでしょう。

当時、布は今日とは比べものにならないほど貴重な時代でした。
材料となる繊維を育てるのも、糸にするのも、それを織るのもすべて手作業です。
国分寺国分尼寺は、都の貴族がその権力を見せるために建てるわけですが、どれほどの資金、職人、材料などがつぎ込まれたのでしょう?

たとえ繰り返して使ったとしても、たくさんの布が必要だったはずです。瓦を焼く窯は、山の斜面に横穴を掘ったような形で、数十年前に発見されたものだけでも十基以上あります。

瓦もそうですが、織物技術も、養蚕も、麻の栽培も、すべてが帰化人によって西方からもたらされたもの、縄文時代には、苧(からむし)などの草を使った、アンギン編みの布はあっても、織り機で織られた布はありませんでした。

さて、瓦職人さんたちはどんな布をまとっていたのか、ちょっと気になるところです。





0 件のコメント: