先日、友人Kが来たとき、近くの
瓦塚に寄ってみました。
以前拾ってきた瓦のほとんどは返したのですが、また拾ってきてしまいました。今回は布目がはっきりとついている瓦だけ拾いました。
何故布目がついているか?
瓦を成形するとき、あとではがしやすいように布を広げて、その上に伸ばしてつくったと思われますが、八世紀では、布は今では考えられないほど貴重なものであったはずです。
以前、布はカラムシだったかもしれないと書きましたが、カラムシは上布にもしますので、もっと荒い、水に浸すと強くなるという、シナノキの布だった可能性の方が高そうです。
それにしても瓦をたくさんつくるのには、大量の布が必要だったと思われます。
この瓦は、焼くとき煙があたったのか、一部窯変しています。まるで上薬をかけたかのように、きらきら光っています。
それにしても布目の裏側はどうして、引っかいて線をつけているのでしょうか?
瓦はつるつるでも汚れやすいものです。
この引っかき模様は、よく見ると単純な縞ではありません。
やはり布目がついていたものを、引っかいたのでしょうか?
一片の瓦が、いろいろなことを想像させてくれます。
4 件のコメント:
へぇ~!こんな瓦があったのですか!
知りませんでした。
浜辺では見ませんね。(笑)
Shigeさん
このあたり、瓦塚が数ヶ所あります。どこも長い間忘れられていました。塚が発見されたときに大きな瓦が見つかったのかもしれませんが、博物館もないので、いったいどんな瓦がどんなつくられ方をしたのか、知りません。
江戸まで、農家は瓦屋根を禁じられましたが、明治中期に蚕で儲かって、一大瓦ブームがおきました。でも山の斜面利用の窯ではなく、達磨窯で焼きました。今でも瓦を焼いている家がありますが、土は他県の土で、ガス窯です。
瓦にも興味がありますが、15キロも離れた国分寺、重い瓦をどうやって運んだのか、興味は尽きません。
春さん、15キロなら大したこと無いですよ。
渥美半島の先端近くにある渥美古窯跡で、出土した軒瓦には「東大寺大仏殿瓦」の文字があり、鎌倉時代に奈良の東大寺の瓦を供給した窯なんです。
海路を行ったと思われますが、どのようなルート通ったのでしょうか?
Shigeさん
今、大変と思われることが、なんでもない時代があったのですね。大仏殿の瓦は、大きい瓦ですよね。何往復したことやら...。
大仏殿と言えば、自分がちょっと大工をやっているだけに、柱を立てる大変さ、高いところの造作をする大変さが偲ばれます。
足場を組むと言ったって、鉄の足場もないのに、竹や木を継ぎ足して作ったのでしょうし、梯子だって歩きやすかったとは思われないし。
瓦を一枚運び上げて、それを並べると考えただけで、目がくらくらします(笑)。
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