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2024年10月28日月曜日

久しぶりの土器の欠片


イノシシに壊された石畳をなおしていたら、かなり久しぶりに縄文土器の欠片を見つけました。以前だったら大喜びしただろう欠片ですが、何だこんなものかとそこいらに放り出して、数日してから思い出し、拾ってきて洗いました。


まぁ、代わり映えしないよなぁ、と頭はすっかり傲慢になっています。


右はKさんから、「いらないから」といただいたものです。
せめて、庭からこんなのを一つでも見つけたいなぁ。





2017年1月20日金曜日

Shigeさんの拾いもの

しばらく前というか、昨年の話だけれど、福井でShigeさんのビーチコーミング講座があった帰り、Shigeさんの家に泊めていただいて、コレクションを見せていただきました。
漂着物コレクションは、素晴らしく整理されていたのですが、見るのに夢中になって、写真はまったく撮り忘れてしまいました。


そのShigeさんの家の玄関です。
自分でモルタルを塗られたのでしょうか、いろいろな、浜で拾ったものばかりが埋め込んでありました。このような仕事は、埋め込み過ぎては、セメントがかぶって見にくくなります。かといって、よく見えるようにと浅く埋めると、すぐ剥がれてしまったりします。
それなのに、どのサークルも、ほどよく、きれいに埋めてありました。
つくりかたは、まず出来上がりより7-8ミリ低く、コンクリートを打ちます。少し固まりかけたときに、ガラスや陶片を並べます。
その上に、ゆるめのモルタル(コンクリート材料から砂利を除いたもの)を、置いたものの縁がかぶるくらい流します。そして固まりかけたときに、濡れた布で、石やガラスなど置いたものの上に被ってしまったモルタルをきれいにふき取ります。
板を渡したとしても足場は悪いし、やり直しは聞かないので、丁寧な仕事が求められます。


シーグラスたち。
なかでも、割れてしまったガラス浮きの「へそ」が、とっても素敵です。


「これはなんだろう!」
ただの石には見えません。化石でしょうか?それとも、全部メノウでしょうか?
引き込まれるような石たちでした。


陶片は、どれも印判以前の、江戸時代や明治のものなどです。
一番手前は、Shigeさんの好きな、「くらわんか碗」の五弁花模様です。くらわんか碗とは、江戸時代の雑器で、大型船に飲食物を売った、小さなくらわんか舟で使われていました。
「めしくらわんか、さけくらわんか」
と叫んで、くらわんか舟は、港や河口のあたりを行き来していました。


ここにも、五弁花や蛸唐草などが見えます。
どの模様もとっても素敵、鮮やかなコバルトが出回る前の呉須の色がきれいです。


江戸末期には、こんなに巧みな絵を描ける陶工たちがたくさんいて、目にも留まらないような速さで次々と絵付けをしていったのでしょう。
Shigeさんは、これらの陶片を、おもには渥美半島あたりで拾われたものだと思いますが、ほとんどは伊万里、波佐見など、九州でつくられたものです。
とっても素敵でした。








2016年5月24日火曜日

海へ!

日曜日に、海に遊びに行きました。というか、魚市場にお寿司を食べに行ったついでに、海にも寄りました。
この日は霧が出て、遠くは霞んでいた、那珂川の河口です。
普通、河口には海岸とは違うものが流れ寄っていて面白いらしいのですが、海岸が侵食されないように、防波堤がつくってあり、川から流れてきたものが浜に留まることがなさそうでした。
川岸には、石ころがあるくらいで、とくに珍しいものは見当たりませんでした。


その防波堤の、砂浜側です。


ここでは、庭の一角に敷くような、ちょっと大きめの丸い石を拾おうと思っていたのに、ほとんど拾えませんでした。
丸い石がある場所ですが、どれを拾うかとえり好みをしていたからです。
下段の真ん中は自然石か、人工物か迷うところでした。


似た石がわりとたくさん転がっていたので、自然石の可能性が高いでしょうか。
まぁ、きれいだったら、自然石でも人工物でもどちらでも構わないのです。


陶片も拾いました。
古くもないけれど、そう新しくもない。


近くで、同じお皿のかけらも落ちていました。
わりと厚みがあります。どんなお皿だったのでしょう。


小さな石たちも。


左端はプラスティックの浮きです。
昨日、北海道ののらさんから、『のらつうしん』が届きました。
その中に、


「浜にめぼしいものはないから、(しかたがない)十勝石でも拾おうか」
などと書いてありました。
なんて贅沢な!
十勝石が月なら、ただの丸い石はすっぽん、あちらがスターなら、こちらは台詞のない通行人といったところでしょうか。






2016年1月12日火曜日

15分の浜歩き


買い物ついでに、ひたちなかの海に寄った日、
「もう一ヵ所くらい、浜に降りたいかい?」
と、夫。
「ちょっとだけ、停まってもらおうかなぁ」
「どこか希望がある?」
「どこでもいい」
このところ、夫は膝の具合が悪化して、ほとんど歩けないので、車の中です。
二ヶ所目に寄った浜は、やはり奥行きも長さも短い砂浜でした。
時間は限られているし、潮が満ちていて浜も小さいので期待薄、ただ歩けばいいか、というところでした。


最初に目に入ったのは、合弁の貝たちでした。
波にもまれて、テトラポットに打ちつけられて、中身もとっくに洗われてしまったのに離れないでいたなんて、ちょっとロマンチックです。
目につくままに拾って、家に戻ってみたら、二つだけ、離れてしまっていました。


拾ってもどうするあてもありませんが、
「まぁ、何も拾えないだろうから、ビーチグラスでも拾おう」
と思い直して、ビーチグラスも拾ってみました。


石灰質のついた石も、見過ごせません。


ときおり、好きな形の石も拾います。


カサガイの仲間は、このあたりの海ではとてもよく見られる貝です。
その日、とく目についたのは、ユキノカサガイでした。
右下は、ウノアシです。
 

陶片は、プリントではなくて手描きのもの。


割れてから波に洗われたクルミは、なかなか美しいものでした。
 

さて、貝ラインを見ていたら、小さいけれどタカラガイがありました。
「ラッキー」
と思って拾ったら、あるある、欠けたのを入れると、13個も拾ってしまいました。


たぶん、13個も一度に拾うなんて初めてのことでした。







2015年7月11日土曜日

海からやってきた!


日立の浜で拾った貝です。
ユキノカサガイだと思いましたが、高さがあり過ぎるような気もします。


手前の真ん中なんて、高い、高い。
こんな厚みのあるカサガイもあるのでしょうか?


これ、今までに拾ったガラスの中で、一番丸いものかもしれません。
いったい、どれほど海の中にいたのでしょうか?


たいていのシーグラスは、こんな感じです。


この緑灰色の二本線、統制陶器に見えます。
調べてみると、どんぶりがこんな形をしていたようです。
もし、統制陶器なら、拾ったのは初めてです。


あとの二つは、碍子のような電気関係のものでしょうか。
文字の色は統制陶器と似た色ですが、戦時中にローマ字を書くなんてことはなかっただろうし。


石英の石は、海岸だときらきら光って見えます。
中に一つだけ、水に浮くプラスティックが混じっていますが。


扁平な石は、川をごろごろ転がってきたものではなく、海で寄せては返し、返しては寄せてできたものです。





2015年1月9日金曜日

絶縁します

益子の古道具屋の「内町工場」には、いつもおもしろいものが、多すぎず、少なすぎず、隅から隅まで見られるように置いてあります。
いったいいつ仕入れているのか、行くとお店はたいてい開いていて、いつも同じ男性が静かに店番をしています。


この、小さな管が絶縁材だということは、一目見てわかりましたが、いったいどんなふうに使ったのでしょう。
廃業していた電気屋さんから、出てきたそうです。


この日はサンゴを買いに行って、ついでに乳棒のない乳鉢と、絶縁材20個をレジに持って行きました。
「乳鉢は500円だけどいいですか?」
「はい、いいです」
「中のものはおまけにしておきます」
いいのかなぁ、お言葉に甘えて。

 

絶縁材は、比較的厚いものが白い色、薄いものが赤い色になっていました。


絶縁仲間たちです。





2014年12月30日火曜日

土師器(はじき)


Oくんの家の、ストーブの脇に壺が置いてありました。
畑でごぼうを掘っていたら、掘りあてたものだそうです。

ごぼうは、地中深く根を下ろします。そのため、かつてはごぼうを掘り上げるのはたいへんな作業でした。ごぼうの脇に1メートルくらいの深い溝を掘り、そこから崩していきました。
今では、トラクターを持っている人は、ごぼう掘りのアタッチメントを装着して、地中のごぼうの下に刃を入れて、折らないで掘り上げることができます。

Oくんはごぼうをユンボで掘っていました。
すると、
「がらがらっ」
と異常な音がしたので見ると、地中に、素焼の壺などがかたまって埋まっていたそうです。
「ごぼうを掘らなくちゃならないし、一つ一つ取り出す暇がなかったので、欠けが少なかったこれだけ拾って来た」
とのことでした。


もしかして、そのごぼう畑のあたりには、昔の窯場でもあったのでしょうか。


陶器は丸いからと言って、必ずしも轆轤(ろくろ)を使ってつくたものとは限りませんが、この壺は轆轤で挽いてあるようです。

轆轤の技術は古墳時代に、轆轤を使ってつくった須恵器(すえき)とともに、大陸からもたらされました。
須恵器は、窖窯(あながま)を使うことによって、焼成温度を1100度以上に上げることができ、還元焔焼成するため、硬くて丈夫な土器をつくることができました。
それに対して、もっと低い温度、800度から900度で焼成されたものを土師器(はじき)と呼びます。須恵器に比べると脆く、下に見られてきました。
土師器も、須恵器同様、平安時代まで盛んにつくられました。
その後は、釉薬をかけた陶磁器に押されて廃れていきましたが、「ほうろく」のように、今でもつくられている土師器もあります。


さて、あっちからもこっちからも、古代の石器や土器がざくざくと出てくる八郷は面白いところです。

日本の典型的な農山村は、山が迫っている急峻な土地にほんのわずかに開いた田んぼと畑があるものです。また、大平野は、近代になって大きな治水工事をして、やっと得られたものです。

しかし、大きな盆地である八郷には、水にも恵まれた広い耕地がその昔から悠々と広がり、その一部に、衣生活のための麻や綿を植えても、食生活を脅かすことがないほど、人々を十分養うことができました。山に囲まれているために、古来から自然災害をほとんど受けず、また地形から戦場になったことがなかったのも、八郷の豊かさを保ちました。
薪や生活に必要な木を得るための入り合い林のあるなしは、近代まで人々の死活問題でしたが、それも十分あり、山の一部を、屋根材のための萱場にすることもできました。

昔も今も豊かな土地の八郷。
そんな八郷で、かつてどんな生活が繰り広げられていたのでしょう?


Oくんの家の庭にしつらえた、露天五右衛門風呂です。


もちろん、室内にお風呂があるのですが、遊び心いっぱい。赤ちゃんと一緒に楽しんでいるのに違いありません。
昔の人たちも、形は違っても、同じような楽しい生活をしていたのでしょう。




2014年6月11日水曜日

昔の布

先日サナンさんが来たとき、ここの集落の名前の由来を聞かれました。
詳しくは知りませんが、瓦という字がついているのは、その昔、平安時代に石岡に国分寺国分尼寺を建てたとき、ここで瓦を焼いたからだと説明しました。
約、1200年前の話です。

タイのお寺にも焼きものの瓦が使われていますが、それは木の瓦の形がほとんどそのまま焼きものの瓦に置きかえられたものです。そう昔のことではないでしょう。
ところが、日本の瓦は帰化人の技術集団がもたらしたもの、それ以前は草屋根しかありませんでした。
何の証拠もありませんが、私は「瓦」という言葉自体、「韓(から)のもの」、「韓」、「かわら」となまったのではないかと考えています。

そんな話のついでに、見た方が早いと、瓦塚に行ってみました。
興味深く窯を見ているサナンさんに、
「落ちている瓦のかけらを、持って行ってもいいですよ」
と言ったのですが、彼は持って行きませんでした。私なら、1200年も前につくられたものと聞いたら、すぐ拾ってしまいます。私のような輩ばかりいると、何でもなくなってしまうと、ちょっと反省しながらも、とりわけ大きなかけらを拾ってきました。

 
表にはこんな模様がつけられていました。縄文土器と同じように、縄でつけたものでしょうか?


興味深いのは裏です。
布を当てて成型していますが、布目がはっきりと出ています。見事な平織りの布は、たぶんシナノキの繊維で織ったものでしょう。

当時、布は今日とは比べものにならないほど貴重な時代でした。
材料となる繊維を育てるのも、糸にするのも、それを織るのもすべて手作業です。
国分寺国分尼寺は、都の貴族がその権力を見せるために建てるわけですが、どれほどの資金、職人、材料などがつぎ込まれたのでしょう?

たとえ繰り返して使ったとしても、たくさんの布が必要だったはずです。瓦を焼く窯は、山の斜面に横穴を掘ったような形で、数十年前に発見されたものだけでも十基以上あります。

瓦もそうですが、織物技術も、養蚕も、麻の栽培も、すべてが帰化人によって西方からもたらされたもの、縄文時代には、苧(からむし)などの草を使った、アンギン編みの布はあっても、織り機で織られた布はありませんでした。

さて、瓦職人さんたちはどんな布をまとっていたのか、ちょっと気になるところです。





2014年4月10日木曜日

出土品


四万騎(しまき)農園では、広大な屋敷地の向こうに栗林が広がり、栗の下には野生種の菜の花が、 今を盛りと咲いていました。


四万騎野は、その昔は、ただ荒野が広がっているところで、現在の農園主Hさんの曾祖父が開拓されたものです。

 
農園では、栗の甘露煮、栗ジャム、栗の苗などを売っています。 ジャムはプレーンのほかにはラムとブランデーの入ったものがあります。
 

その店舗部分のテラスに、石が置いてあります。
「出土したのですか?」
「そう。このあたりには川もないから、誰かがどこからか持って来たんだろうね」
と、ご当代。


矢じりのような石もありましたが、ほとんどは私の好きな丸っこい石。
杵とかすりこぎで、何かをすりつぶすのに使ったんでしょうか?


中には、穿孔貝が穴を開けた石もあり、海から拾ってきたことがうかがえます。


ずっとずっと時代がさがって、アメリカ製トラクターの部品なんて出土品もありました。


この土器も、四万騎農園の敷地内から出たものだそうです。
「骨壷も出たけど、あげちゃいました」
「骨壷はどのくらいの大きさだったんですか?」
「このくらいかなぁ」
とご当代が両手でつくった形は、直径20センチ以上でした。
「骨も残っていたのですか?」
「残っていました。昔は土葬にして、数年経ってから掘り起こして埋め直したんでしょうな。親子二人の骨が入っていました」
そうそう、そんな埋葬はどこにでもありました。
私が小さい頃は、土葬も火葬もありました。土葬したお墓は土饅頭と呼ばれ、ふくらんでいて、子ども心に、生き返ったら苦しいだろうなと想像したものでした。
骨は、数年経ってから石のお墓をつくって埋め直されたはずですが、どうやったのか知りません。

近世には、誰も住んでいなかった四万騎野にも、古代には人が住んでいたのでしょう。
八郷に引っ越しして来てから、あちこちで土から出てきたものを見たり、地質を見たりするので、古代人の生活が、つい隣の人の生活のように身近なものになりました。